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<一九二九年>
すっかり旧型になった我が家の居間のラジオからはノイズまじりに「リリーマルレーン」が流れている。
彼女の柔らかいアルトが乗ったメロディを床越しに聞きながら、僕は身の回りの物をトランクに詰め込んでいた。
明日の朝一番の汽車で僕は生まれ育ったこの村をたつ。
二十歳になった僕はついに憧れの航空学校へ入学する事になったからだ。
両親の反対等はもちろんあった。
それでも僕は根強く説得し続け、ついに首を立てに振らせるのに成功した。
元々、家業は兄が継いでいたので、両親としては頑として僕を引き止めるだけの理由を持ち合わせていなかったのだろう。
それに航空学校といっても条約によって空軍関係は禁じられているのであくまで民間のだ。
しかし、それでも僕は心地にあらずの状態で無意識に緩む口元を引き締めようともしなかった。
頭の中では既に空軍の飛行服に身を包み、愛機を手足のように操り、自由に大空を舞い、鮮やかに敵を討つエースとしての自分の姿しか浮かんでこなかった。
ところがそれも一瞬で現実に引き戻される。
僕が母の持たせてくれた赤いスカーフをトランクに詰め込んだ時、不意にドアがノックされたのだ。
「開いてるよ」
楽しい妄想を中断されてしまった所為か、やや、不機嫌な声で答えてしまう。
おそらく母が最後の御小言でも言いにきたのだろう。
そう思いながら何故か自分から開こうとはしないドアを開けた時、そこには意外な人物が意外な顔をして立っていた。
「モニカ・・・?」
モニカはいつも一緒に遊んできたそばかすと笑顔が売りの幼馴染だ。
別に特別美人というわけではないが、この村では働き者の器量よし、と理想の嫁と言われている。
歳は彼女が二つほど年下だったので幼ない頃の僕にとっては欲しくてたまらなかった妹のような存在だった。
よく近所の男友達と一緒に野原を駆け回ったものだ。
そうして育ってきた所為か、現在では天真爛漫というよりじゃじゃ馬の部類に入る性格をしている。
湖で水浴びしている彼女達を悪友と覗き見しようとして見事に返り討ちにあった事はまだ記憶に新しい。
そのじゃじゃ馬がどういう訳か、うつむいたままなかなか部屋に入ろうとしない。
促すように彼女を一つしかない椅子に座らせてもじっと黙りこんだままだった。
いい加減、計測不能な質量の沈黙と気まずさに僕は耐えきれなくなって荷造りを再開し始めた。
「やっぱり、行っちゃうんだ・・・・」
「え?」
常日頃の彼女の声量と比較したら何十分の一か解らないほどの小さな第一声だった。
「夢だったものね・・・・フランツの」
「あ、ああ、空を飛ぶ事?」
どうもなんかヘンだ、と思い始めたその時だ。
「うん、そうだよね・・・。解ってるの、解ってるはずなのに・・・・」
そう呟いたモニカは僕の背中にぴったりと抱きついてきたのだ。
全身の血液が逆流して、筋肉が硬直する。
心臓と呼吸が仲良く手に手を取って急停止した。
「え?、え?、ちょっと!?」
僕のパニックを無視して彼女は僕の胸に両手を回してきて、きゅうと力を込めた。
布地越しに伝わってくるモニカの柔らかいふくらみの感触と体温を感じて、さらに身体が彫刻のように動かなくなってしまった。
「やっぱり、気付いていなかったね。私の気持ち・・・・・」
何が何だか訳が解らない。脳みそはモニカは僕の幼馴染で友達で幼馴染で友達で、と同じ事を堂々巡りさせるだけの役立たずになってしまっている。
「どうしてなの、貴方は農民の子供じゃない。どうして・・・・」
全く身動きのできないまま、僕は今更、モニカの声と身体が震えているのに気付いた。
彼女は僕の背中にくっついたまま、「どうして」を繰り返している。
僕は彼女の問いに答える事が出来なかった。そして、ようやく理解が出来たモニカの想いにも。
「しょうがないよ・・・・」
うっかりそう言ってしまうとモニカは堰を切ったようにかなぐり捨てて叫びだした。
「何がしょうがないっていうの!?。農民は農民らしく小麦でも作っていればいいじゃない!。どうして好き好んで人殺しの手伝いなんかしたがるの?。貴方に、フランツにそんなの似合わないわ!!」
「ど、どうしてそんなこと言うんだよ。僕がパイロットになりたかったのを一番知ってるのもモニカじゃないか」
僕としては彼女を落ち着かせる為に言ったつもりの言葉だったが、モニカはその言葉に傷つけられたようにハッと顔を上げた。
彼女の目蓋に溜まった涙がすうっと頬に流れ落ち、今まで僕の知っている彼女の中にない最も悲しそうな表情に歪んだ。
「ばかっ!、アンタなんか勝手にいなくなればいいのよっ!!」
モニカが言い終わるのと同時に僕の右頬に熱い感覚と乾いた音の衝撃が走った。
僕は打たれた右頬を押さえたまま、彼女が部屋を飛び出していくのを呆然と見ているだけだった。
それ以外に今の僕には何をすべきか方法が見つからなかった。
この村で過ごす最後の夜、モニカの涙とじんじんと熱を持つ右頬だけが僕の記憶に焼きついた。
そしてほとんど眠れぬまま、僕は出発の時間を迎えた。
まだ夜の静寂(しじま)が完全に明けていない空に汽笛が高く響き渡る。
両親の接吻と抱擁、兄のとの握手、親しかった人達との挨拶が済むと僕は列車に乗り込み、見送りに来てくれた人々に手を振った。
しかし、そこに彼女の姿を見つける事はできなかった・・・・・。
シク、と右頬が朝の冷たい空気に触れて痛みをぶり返す。
複雑な思いを乗せたまま、ゆっくりと列車は空の白み始めた方角へと走り出した。
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